雪に降り込められる期間だけブログを更新する
2017年は、サウナ、ストレッチ、食べ物飲み物に気を使うこと、などと、
身体に良さそうなことをほそく、長く続ける
ということが好きになり、そのような考え方を他の場面にも応用して生活した。
仕事も、やったほうが良いことを習慣化するとか、タスクを砕いて薄く長い期間でやるとか、今年の仕事の八割位は、そのような視点をもってやっていた気がする。
精神状態(?)を振り返ると、一年の始めの頃は、アメリカの大統領選のインパクトが強くて、AIの発達もやけに怖く感じてしまい、今年、社会は大きく変動するのではないか、と不安感が高かったが、実際はそれほどでもなかった気がする。
身の回りも大きな変化はなかった。
瞑想と水面
あまりに煩雑な日常を送っている気がして、困っていた。
BRUTUSの「禅」特集を読んで、「ただ坐る」「まずは坐ってみる」「ミランダ・カーは10分でも空き時間があると坐っている」などの言葉に触発されて、寝る前の瞑想を始めた。
ルールはアグラをかいて目をつむって耳をすます、iPhoneのタイマーが鳴るまでやる、の2点ぐらい、「何も考えない」のは難しいので「考えを深追いしない」程度で。
フシギなのは、始めの数分はいろいろと考えが浮かぶけど、10分をすぎると「ぼうっ」としてきて、それで10年以上昔の、今までそんな記憶があったことすら忘れていた記憶が、きれぎれに浮かんでくる。
昔よく着ていた服のディテイルとか、昔遊んだ公園の地面の感じとか。
これは愉しい。
そういう「醒めているのでも寝ているのでもない、第3の状態」でいる時間を持つことが大事なんじゃないかと思う。
この頃は慣れてきたのか、ふつうに起きて生活しているなかでもときどきは「ぼうっ」とできるようになってきた。
風呂の水面がゆれて灯りがにじむのを見つめている。周りの音がぼやけて耳にとどく。
小さい頃はよくこの世界にいたのだ、思い出した。
正月にだけ更新するブログがあってもいいんじゃないか
それだけ忙しすぎるということだ。
年末年始には何か考えて書きたくなる。
この心のゆとりをできるだけ他の時期にも持ちたいものだ。
しかし2017は「にせんじゅうしち」と読むのが正しいのだろうか。「にせんじゅうなな」はダメなのか。
「魚の背」をとらえる
人と話をする。もっとうまく話せたのにと思う。
最近つくづく重要だと思うのは、相手のことばを聞いた直後にフッと香る薫りというか、川面に一瞬映る魚の背のきらめきというか、要するに直後に思い浮かんだイメージをことばにして返すことだ。
私はなぜか自分の心の声を無視してしまいがちな性格なのでこれが上手くいかないのだ。難しいもんだ。
夏が終わればもとどおり
今でもおぼえている、4月末のある夜に体の中を甘やか〜なエネルギーの流れがかけめぐって寝つけなくて、あれは今になって思うと夏の始まりだったのだろう。
それからはただもう、うまうまと色んなものに巻き込まれていって、なかなか楽しく受動的にすごした。
最近やっと涼しくなって頭も落ち着いてきて、春さきくらいのテンションに戻ってまたそのときの続きをしたくなった。
巻き込まれる快感
4月の最終週くらいから不思議な感覚があって、体の中に甘いエネルギーが満ちていて、朝早く起きたり、仕事もねばり強くがんばれたりした。
それとともに、4月終わりからGW、そして5月とずっと忙しくて、大きな行事もあって、農作業も手伝って、私の生活はずっと何か大きなものに巻き込まれていた。
息をついてゆっくりものを考えることも、考えをまとめることもできなかった。
というか、進んでしなかった。思考よりもとりあえず行動、体を動かすことを優先していた。
そんな生活はシンプルで、何だか一つの健やかさの形のようでけっこう気持ち良かった。今日ちょっと落ち着いたので振り返ってみた。
一人の人間の幅と人類への信頼
先週は新年度一週目だったので、対人関係の摩擦が激しかった。疲れていたときにふと思いついた。私たちが人間関係の中で感じる「痛み」とは、私たち自身の中にある「人を信じたい気持ち」が傷つけられた痛みなのではないだろうか。だから、映画やドキュメンタリー、小説などで人間のもつポジティブな一面にふれると、傷が癒され、再び力を取り戻したように感じるのではないだろうか。人類への信頼を取り戻すのだ。
さて先週、仕事でヤバい人の話を聞いた。心胆を寒からしめるというか、ワケワカラン怖い人というか。
そういうときは「人間への信頼感が危機にさらされている、試されている……」と思ってみる。
しかし、そういう風に一人の人のあり方が他人の心をゾゾゾとさせることもあるし、温かい涙を流すような感動を与えることもあるし、人一人にできること、「人間の幅」って本当さまざまだなと思った。