春と言ったら萩原朔太郎
「春は遠くからごむ輪のくるまにのつて来る。」
「かずかぎりもしれぬ虫けらの卵にて、
春がみつちりとふくれてしまつた、
げにげに眺めみわたせば、
どこもかしこもこの類の卵にてぎつちりだ。
桜のはなをみてあれば、
桜のはなにもこの卵いちめんに透いてみえ、」……
私は桜の花のことが少し気持ち悪くて、
それは「みつちり」としているからで、
この詩のとおり、ぎっしりと並んだ虫の卵をふと連想してしまうからだ。
まだ4月なのか?
「彼女のスッピン、いいじゃないか。
風呂入って、スキンケアして、布団に入ってきた彼女の、テリッテカッとなった頬に髪の毛束がまがって貼りついてるのなんて、いいじゃないですか。
かあいらしいじゃないですか。」
思考のクールダウン
新年度に向けて前のめりになってしまう今日この頃……。
何度も書いてる例の「今、ここ」に意識を向けることなんてぜんぜんできていない。
何となく思ったけど「今、ここ」にないものについて考えているときって、DVDを読み込んでるパソコンみたいだ。ぶおおおと激しく、例えば未来のことを「再生」している。知らず知らずの内にきっと消耗している。
今日は家に帰っても、風呂に入っても、そんな感じが続いていたので、朝から起きたことを順番に思い出していって(日記に書くみたいに)、少しでも地に足の着いた思考ができるようにしてみた。落ち着こう。
前のめりで頭ばかり働かしているようで、体とのバランスが悪くてきもち悪いな。
ありがとうを決め打ちする
これも『考えない練習』からだけど、「ありがたい」は「有り難い」で、めったにないことに感謝する言葉なのだ。だから何でもかんでも「ありがとう」と言うのは言葉の価値を下げることだし、むしろ相手にとって失礼なんじゃないだろうか?
そう考え始めて数日は、相手に何かしてもらったときには「ありがとうございます」よりも「助かりました」の方がいいんじゃないか、「○○してくれてありがとう」 ってちょっと自分本位の言い方だよなあ、など考えていた。
ただここ数日、異動される人に挨拶をする機会が何度もある。そんなとき、相手との「有り難い」思い出を頭に浮かべながら、
「ありがとうございました」と言ってみる。
行為ではなくて存在に対して使う言葉なんだと思う。
でも別れのときはこれまで一緒に過ごした時間全てに対して「ありがとう」という気持ちになる。
ことしの雪解けは早い
冬から春にかけての、季節感の描写まとめ、日記の抜粋など
・1月5日
今日の朝さんぽでは、雪のつもった水田の上にいちめんにもや、きりがかかっていて、空もくもりでまっしろできれいだった。
それで雪も少ないし、もうこれを「かすみ」って言っちゃってもいいのカナ??!と思うと 春気分でテンション上がった。
・2月15日
けっこう雪がつもった。サラサラ・キラキラ。
・3月6日
春の夕方の、下からさらうように空気がさめていくときのもの悲しさ
・3月13日
3月。今は冬のにおいの中に土のにおいがまじっている。隠し切れない春だ!
・3月19日
雪解け水をしっとりと含んだ あたらしい土の匂い!
春は意思を持ってやって来る感じがするな。今日はもはや、田の雪がすっかり消えていた。
「この人は何に苦しんでいるのだろう」
この間の「触覚に意識を向けると辛さが紛れる」とまさに同じような話が書いてある本を読んだ。(小池龍之介『考えない練習』)
ネガティブに走りやすい脳の性質(に振り回されている状態)を「思考病」と言い表わしていて、それがすごく良かった。養命酒の話で書いたような「思考の奔流」、アレだ。最近はあの状態になったときに「思考病だ。」と唱える(頭の中で)だけで治まる。名付けることで対象化できる例のやつだ。
もうひとつ良かったのが、怒っている人を見たときは反発したり逆に自分を責めたりすることなく、ただ相手の状態を観察し、「ああ、今この人はこれに苦痛を感じているんだな」て見てとる。ただそれだけでいい。
これをやることで相手のペースに巻き込まれることが少なくなった気がする。