三つの生活
親族が病気になり、入院し、葬儀を終えてしばらく経った。
その間の私の生活は驚くほどシンプルだった。
一日に、顔を洗ったり布団をたたんだりといった「日課」と、「仕事」と、お見舞いや家族のサポートのような「手伝い」の3種類の時間帯しかなく、この3つだけをやって一日が終わっていった。
これで十分なんだ、今までも、これからも、という気がなんとなくその時はした。
親と祖父母に育てられ、大人になり、こんどは親と祖父母の世話をしてやる、これこそ何よりも先にやるべきことなんじゃないか、とも思った。親を幸せにできなくて何が自分の幸せなんだ、とか。
突然なことが起こってもジタバタしないように、生活の中にうわついたおかしな点を作らないで暮らしていきたい、とも思った。
「今、ここ」に強力なスポットライトを当てる
「嫌われる勇気」より。
将来のことをあれこれ考えるばかりで、結局今、前に進まないのはダメだよっていうこと。
ただ私は気分の落ち込みに支配されているときにも使えるなと思った。
カウンセラーの人は、患者の話を聞く途中で、「ところで、私の今着けているネクタイはどんな柄ですか」とか「この部屋の天井はどんな模様ですか」とあえて質問することがあるらしい。
自分の思いでいっぱいになっている患者には、「目に入っているけど見えていないもの」がけっこうあるらしい。確かに。だから苦しい思いにとらわれているときには、自分の指さきがふれているものの感触に、空気の冷たさに、体を包む音に、意識を向ける。そうすると少しホッとする。
『きみはいい子』から
「しあわせは、晩ごはんを食べておふろに入ってふとんに入っておかあさんにおやすみを言ってもらうときの気持ちです」
最近、身の回りの人が病気になったりすることが続いて、そういうときにこの言葉を思いだす。
本当にその通りだな……。
これ以上、何のしあわせがあるだろうか。
『嫌われる勇気』を読む勇気
1年くらい逡巡してついにこの間手に取ったこの本。読めば絶対タメになるはずと思いつつも、今までの自分の価値観を否定されそうで怖くて避けていた。
そもそもタイトルからして心に痛い。嫌われたくない。
でも今「嫌われたくない」と書いたけど、もはやそれがどういう感覚だったか完全には思い出せない、かもしれない。
この頃仕事で壁にぶつかることが多すぎた。苦しかったけど先週『きみはいい子』を読んで、一つのセリフが脈絡もなく頭の中に引っかかり続けた。
『全然だめな教師のぼく。けんかもいじめもとめられない、なさけないぼく。
でも、この子のためだけにでも、がんばりたい。
明日も、学校に来よう。この子のために、来よう。』
ダメな所も受け入れて、なおガンバルのだ。
そう思えるようになって、ちょっと変われた気がして嬉しい。(1upしたな…)
だから『嫌勇』も読んでみるかってなった。よかった。人生の新局面に来た思いだ。
「心臓を貫かれて」と「きみはいい子」
『流』を返却しに図書館に行って、そのついでに『心・貫』を借りてきて、そのまた後に『きみは』借りて、というように図書館ループにはまっている。
はからずも全然毛色の違う2冊を続けて読むことになった。というか『心貫』の前ではどんなフィクションも力を失ってしまう。『きみはいい子』も本当にいい本で、やさしく、さらにちょっとだけ勇気を出して生きていきたいと思った。
詳しいレビューはまたあとで書こう。